特集:山内一豊の妻は藤原定家の末裔!?〜千代の母から受け継いだ「お形見」〜
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なぜ国宝・高野切本は山内家に?
東家・遠藤家々系図
ここに、岐阜県郡上八幡、慈恩禅寺に現存する 『遠藤家御先祖書』 という古文書があり、東家と遠藤家の系図 が記されています。
初代八幡城主・遠藤盛数公は、東常慶 ( とうのつねよし ) の娘・友を妻とし、その娘・千代を山内家へ嫁がせていることを示しています。[系図:女 山内対馬守御室]
遠藤家御先祖書   家紋が示された系図の一部   千代を指す記述
慈恩禅寺に残る「遠藤家御先祖書」   東家・遠藤家の家紋が示された系図の一部   女 山内対馬守御室とは千代を指す
 
鎌倉時代房総の雄、千葉常胤 ( ちばのつねたね ) の第六子胤頼 ( たねより ) は、東の庄を領して東氏となりました。その三代目胤行 ( たねゆき ) は承久の乱後、軍功により郡上の地「山田の庄」を加領され、現在の郡上市大和町に城 ( 阿千葉城 ) を築きました。
東家は歴代城主が和歌に優れ、郡上の初代城主となった東胤行は鎌倉将軍の歌の師で、藤原定家の弟子でもあり、定家の孫娘 ( 藤原為家[二条家]の娘 ) を妻にしたのでした。
東家十代は東氏数 ( うじかず ) で千代の母の曽祖父に当たります。その末弟が 東常縁 ( つねより ) で、氏数は東家十一代を 70 歳の常縁に継がせました。
常縁は、 藤原定家 より受けた 御子左 (のち二条流が主流となる)の享受とともに、 正徹尭孝 といった中世を代表する歌人に学びました。
そして、 切紙 による伝授方法を取り入れて、連歌師の 飯尾宗祇 に伝授しました。
この切紙を中核とする伝授により 古今伝授 を確立し、東家はその流れを汲んで代々文学に秀でていたと想像されます。これらは、東家歴代城主が 勅撰和歌集 に入選している事からも伺えます。
常縁の後は千代の母の祖父に当たる氏数の子、元胤 ( もとたね ) が十二代を継ぎました。そして、東家最後、十三代常慶 ( つねよし ) の時にその娘、千代の母は遠藤盛数の妻となったのです。
くしくも、千代の父・遠藤盛数が、母方の叔父・東常尭 (つねたか・ つねあき ) を滅ぼす事になり、東家は断絶してしまいました。

しかし、母・友 ( 友順尼 ) から東家に伝わった最古の写本「古今和歌集巻第二十[高野切]」に代表される古文書等を譲り受けたことは推察でき、嫁ぎ先の山内家に所蔵されていても不思議ではありません。

東家・遠藤家々系図
古今和歌集は高級美術品

戦国時代、美術品としての価値を高めた古今和歌集は、武将の褒美に使われることも多々あったようです。東常縁は、斎藤妙椿に奪われた郡上の篠脇城を、京都で十首の歌を詠んで取り返したエピソードがあります。当時の和歌の位置がいかようであったかは想像がつきます。

戦国時代の武将
武士に必要な素質として、武術・領地経営のほか、文学的才能が必要で、文武両道に秀でていなければなりませんでした。歴史に登場する有名な武将は皆、文武両道に優れていました。
一族の跡継ぎも長男とは限らず、総合的に器量の備わったものを世継ぎとしたようです。東常縁も例外ではなく、特に和歌の道では、他に追随を許さぬほど優れていました。そして和歌の最高峰の古典とされていた『古今和歌集』の研究を極め、古今伝授の重要な担い手となりました。(フィールドミュージアム東氏記念館資料より抜粋)
 
千代の軌跡
郡上古日記 複製
さて、この遠藤家の姫君(千代)は彼女が3歳頃に父、遠藤盛数が亡くなってしまうので、その後数奇な運命を辿る事となります。
父遠藤盛数が亡くなると、母友は遠藤家安泰のためしぶしぶ、八幡城をにらむ関市安桜山城主永井隼人に、娘を連れて再婚しますが、程なく信長勢に責められ安桜山城は落城。母子は信長の手を逃れ近江へ。その後娘は兄嫁(長兄遠藤慶隆の妻)の実家である北方城主安東家の養女となりました。
この北方城主・安東守就の弟、安東郷氏の奥方は、なんと山内一豊の姉でした。また、千代の兄嫁の姉妹は竹中半兵衛重治へ嫁いでいたのです。
仮にこの娘が千代として見ると、山内一豊と千代の二人が結ばれる自然を感じてしまいます。
写真左:郡上古日記 複製・東家遠藤氏系図/岐阜県立図書館
陣立図に見る親戚関係
長浜城歴史博物館にある「秀吉陣立朱印状」の陣立図に、山内伊右衛門(一豊)、遠藤左馬助(千代の長兄・慶隆)の名が並ぶのが確認できます。当時は裏切りを防ぐために親戚縁者で先陣を組むことが常であり、この陣立図では山内家と遠藤家が婚姻等で、きわめて固い同盟関係を結んでいたことを物語っています。
写真右:秀吉陣立朱印状複製/八幡城資料より
秀吉陣立朱印状複製
 
お形見のゆくえ
先の高野切巻第二十の件を再度、思い起こしてみましょう。なぜ千代が所有していたか・・・。
それは、千代の母が和歌の大家、藤原定家を先祖に持ち、母(友順尼)の両親が共に和歌に精通した家柄という血統筋であれば、国宝級のお宝を持つのも自然の成り行きと頷けます。また、晩年を京都妙心寺で菩提を弔いながら、古今和歌集や徒然草を机上に置き、和歌を詠む日々であったと伝えられるところからも想像が膨らむところです。
大切な「お形見」は、その後千代(見性院)が臨終の床で、湘南和尚(千代の育てた拾い子で後、妙心寺に出家)にお形見を一式、土佐藩主山内忠義公へ渡してほしいと固く遺言したと伝えられています。
「山内一豊夫人、千代」の出自には、従来定説であった「近江説」と新たに「郡上説」が浮上してきたわけですが、ここでお千代様の出自をとやかく言うことは避けましょう。
大河ドラマ「功名が辻」で仲間由紀恵の美しい顔を眺めながら、歴史という時空の大きさ故に面白いロマンが生まれることを痛感し、お千代様の賢夫人振りを楽しもうではありませんか。
木蛇寺殿墳記・正宗龍統撰 江戸中期写
見性院肖像画部分(複製)/フィールドミュージアム東氏記念館

写真右上:木蛇寺殿墳記・正宗龍統撰 江戸中期写/木蛇寺殿とは郡上東氏七代東益之(常縁の父)のこと。 33回忌にあたり、その子で京都五山建仁寺の住持「正宗龍統」が書いた。他の系図等に書かれていない事蹟が多く、東氏研究の根本資料の一。[東氏記念館より]
写真右下:見性院肖像画

 
この特集を組むにあたり、慈恩護国禅寺のご住職に、所蔵の系図や自らが作成された分りやすい系図で、千代に関する歴史的な経緯を詳しくご説明いただきました。
慈恩寺は、千代の兄とされる八幡城主・遠藤慶隆公が、京都から高層半山禅師を招かれて開基された、由緒あるお寺です。
半山和尚が作庭された室町様式の名庭は、四季折々に美しく、私たちの日頃の雑踏を忘れさせてくれる、ゆったりとした時間が流れているようです。

慈恩禅寺住職・慈恩禅寺門前・書院から見る名勝庭園
 

*NHK大河ドラマ「功名が辻」は司馬遼太郎氏の原作に基づいています。氏が「功名が辻」を発表したのは昭和 38 年。
郡上説が浮上してくるのは昭和 40 年代になってからのことでした。

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