特集:山内一豊の妻は藤原定家の末裔!?〜千代の母から受け継いだ「お形見」〜
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「もったいない」の元祖はお千代様?〜美徳の鏡とされた山口一豊の妻エピソード〜
千代のへそくりで買った名馬
八幡城本丸跡に建つ「山内一豊と妻の像」*このお話は、永井源六郎氏著「山内一豊の妻は美濃の人」を基にしています。他史料では金子の金額が異なったり、馬を売りに来ていたりして、諸説があります。

へそくりで夫を出世させたお話。一豊様が織田家に仕えていたある日のことに始まります。お城から戻った一豊様の浮かない顔を見て千代が尋ねると、今度馬揃えが行われることになり、ご自分では名馬を揃える力もなく落胆されているのでした。

そこで千代の目が輝き、十両の金子を鏡の筥(はこ)の底から黄金十両を取り出しました。「私の生まれた郡上は名馬の産地。昔源平合戦の折にも郡上の駿馬が武功を立てた話は母から聞いております。これで名馬を買ってご奉公なされませ。」と金子を差し出しました。

驚き喜ぶ一豊様ではありましたが、日頃貧乏をしているのにこのような金があるならなぜ今まで黙っていたのかと問いただす一豊様に、「母から常の時に使ってはならない。夫の一大事の時に渡すのだと言われ、生活が苦しいのは常のこと、この度は都での馬揃えで今がその時と心得ます。」と答えました。

郡上一の名馬を手に入れた一豊様は、時の帝・正親町天皇臨御の下で行われた馬揃えで、信長様の目にとまり、これを機にお館様に目をかけられるようになり、次々と立身の階段を登るきっかけをつかまれました。

このお話は明治・大正・昭和初期の三代に渡り、小学校の国定教科書に載せられていたそうです。この妻あってこその出世と、昔から語られて来たのが山内一豊の妻・千代です。今の世も、家庭を持つ女性はへそくり上手の人が多いようですが、このへそくりの元祖はお千代様だったと思えなくもありません。

 
まな板代わりに使った枡
新婚当初、生活が苦しかった時代にまな板のかわりに枡を使っていたという逸話が残っています。

この包丁の切り後がついた枡は、土佐入国後、朝倉町にあった藩の米蔵に納められ、毎年正月十六日の大黒祭りに出していました。

昭和20年の戦災により焼けてしまって現存していませんが、高知城内に藤波神社創建されたときには、同神社に宝物として納められ、米蔵には模造品が置かれていたとのことです。藤波神社は、昭和52年歴代藩主を祀る山内神社に合祀されました。

 
千代はパッチワークの発案者
古布で作ったパッチワークの打掛/郡上八幡新町「越前屋」に展示これも倹約から生まれたアイデアで、千代の作った小袖が秀吉公の目に留まり、皇居にまで奉献されたというお話です。それが「稿本見性院紀」に記されています。

[以下当編集部解釈「稿本見性院紀」より]
千代はとても技芸に秀で筆も達者で、特に裁縫に巧みでした。長浜城に住んでいた頃、唐織の巻物の小切れを集め、これを縫い合わせて小袖を作ったのでした。その精巧な出来具合は人の目を驚かしました。或る人がこれを一豊様に、秀吉公にお見せするように勧め、それをご覧になった秀吉公は大層感心され、これを聚楽第に置き、出入りする人々にお見せになりました。後にはこれを禁裏(皇居)に奉献されました。

小さな端切れ1枚も無駄にせず、捨てられるはずのもので着物に仕上げるという千代の発案は雄に及ばず、まさに「もったいない」という、日本固有の考えの持ち主そのものではないでしょうか。聚楽第にまであがった小袖も、おそらくすばらしくセンスの良いものだったに違いありません。

 
黒髪を売って夫のメンツを立てた千代
一豊様が秀吉公から築城の監督を命ぜられた時、同役達は配下の人夫達に重詰めの振る舞いをしました。ところが一豊様は貧しくて、夜食も出してやることができませんでした。

それを知った千代は、密かに自分の黒髪を切って売り、そのお金で料理を整えたのでした。一豊様は恥をかくこともなく面目が立ち、同役にも振舞ったそうです。翌日、千代が頭に手拭を巻いたままなので不思議に思って訳を尋ねると、埃を払うのに都合が良いと答え、いつまでも取らないので、更に問い詰めると、ようやく訳を話したのでした。そこで初めて事の真相を知り、一豊様は呆然としてしばらく声も出なかったと伝えられています。

 
千代の画策「笠の緒の密書」
関ヶ原の戦の少し前、お千代様は大阪城に居られました。この時、石田方から応援を請うべく連署の書が寄せられました。その時、関東に出陣している一豊様に使者に送って大阪の状況を知らせ、進路を誤らせなかったお話は有名で、これも「稿本見性院紀」に記されています。

当時、密書を刺客に襲われないように運ぶのは容易ではありませんでした。そこでお千代様はこの書状を文箱に入れ、別に密書を編笠の緒に紙縒(こよ)りにしてより籠め、刺客に見つからないようにして無事届けたのでした。

届いた密書を読まれた一豊様は、直ちにそれを燃やし、書状は未開封のまま家康公に届けられました。文箱に入った書状と共に、お千代様より公に宛てられた消息状があり、それを読まれた家康公は、何が書かれているか解らない書状を未開封のまま差し出した一豊様の態度に、二心無い証と大層喜ばれました。その翌日の軍議では、一豊様は誰よりも先に自分の城を明け渡すと同時に、人質まで出し家康公への忠義を誓われ、高く評価されたのでした。

これはおそらく、妻の密書にそうするように書かれていたからと言われています。こうして、家康公は大阪方の動静を知ることができ、益々一豊様の評価は高まったのでした。

 
この特集の編集にあたり、参考文献として以下の著書等に依らせていただきました。また、慈恩禅寺のご住職や佐藤とき子氏に多くのご協力を戴きました。厚くお礼を申し上げます。

■東氏ものがたり:東氏文化顕彰会
■一豊の妻見性院・出自の謎を追う:岩埼 義郎
■山内一豊の妻は美濃の人:永井 源六郎
■濃飛の文化財 第43号・第44号抜粋:岐阜県文化財保護協会
■見性院ものがたり(紙芝居):山内一豊夫人顕彰会   

 
来月より当サイトで「見性院ものがたり」を連載いたします。
これは、山内一豊夫人顕彰会で制作された紙芝居をもとに、許可を戴き当編集部にて画像加工・文章編集し、掲載させていただくものです。山内一豊の妻 千代夫人の一生を、物語としてわかりやすくご覧いただけます。
 
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